「水泡に帰す(すいほうにきす)」の意味は「努力したことが無駄になる」です。「水泡」とは「水の上に浮かぶ泡」のことで、「帰す」は「戻る」「終わる」という意味です。努力をしてきたことが無駄になってしまった残念な気持ちや悔しさを言い表すときに使用されます。
「水泡に帰す」の読み方は「すいほうにきす」です。 「水」は音読みで「スイ」、「泡」は音読みで「ホウ」、「帰」は音読みで「キ」と読みます。 「水泡」の読み方には他にも「みずぶくれ」「みなわ」などがあります。 ただし、「みずぶくれにきす」「みなわにきす」とは読みません。 また、「帰す」は「かえす」とも読みますが、「すいほうにかえす」とは読まないので注意しましょう。
「水泡に帰す」の意味は「努力したことが無駄になる」です。 これまで積み上げてきた努力や苦労が一瞬にして無駄になってしまうことを言い表します。 「水泡に帰する」ともいいます。
「水泡」とは「水の上に浮かぶ泡」のことです。 「水泡」は大きく膨らみますが、ちょっとした刺激などであっという間に消えてしまいます。 この水泡の様子から、はかないことの喩えとして使用されています。 「帰す」は「戻る」「終わる」という意味の文語です。 「水泡」と「帰す」という言葉を組み合わせて「努力をしてきたものがあっけなく無駄になってしまうこと」を言い表す慣用句として使用されています。
「水泡に帰す」は、努力をしてきたことが無駄になってしまった残念な気持ちや悔しさを言い表すときに使用されます。 例えば、数ヶ月にわたって一生懸命イベントの企画をしてきたのにも関わらず悪天候でイベントが中止になってしまったという場面です。 また、「努力をしていても、一瞬で無駄になってしまうこともあるから気を抜かないようにしよう」という注意喚起で使用することもできます。
「水泡に帰す」の例文
「泡に帰す」は誤用です。 「泡に帰す」でも意味が通じるように思えますが、「水泡に帰す」で一つの慣用句なので「水」を省略することはできません。 「泡」のみを使用するのであれば「泡と消える」とするのが正しいです。 「泡と消える」でも「努力してきたことが失敗に終わり実らないこと」を言い表すことができます。 「水泡と化(か)す」も誤用です。
「化す」の意味は、です。 「水泡に帰す」は、「努力が水泡のように消えること」を言い表しています。 「水泡と化す」では意味合いが異なってしまうので注意しましょう。
「水泡に帰す」は「水の泡になる」と言い換えることが可能です。 「水の泡になる(みずのあわになる)」の意味は、「せっかくの心づくしや努力がはかなく消えてしまうこと」で「水の泡に帰す」と同義です。 「水の泡に帰す」と同様に、はかなく消えてしまうことの喩えで「水の泡」を使用しています。 「水の沫になる」とも書きますが、「沫」は表外漢字なので「水の泡になる」と書くのが一般的です。 「表外漢字」とは、常用漢字表に載っていない漢字のことをいいます。 表外漢字は新聞や公的文章では使用されません。
「徒労に終わる」は「とろうにおわる」と読みます。 「徒労に終わる」の意味は「苦労してきたことが報われずに終わること」です。 結果的に見て、一生懸命やってきたことに対して見返りが得られないことを言い表します。 「努力してきたことが無駄になってしまう」ということを言い表す「水泡に帰す」と同義です。
「骨折り損のくたびれ儲け」は「ほねおりぞんのくたびれもうけ」と読みます。 「骨折り損のくたびれ儲け」の意味は「苦労をしても何の結果も上がらず、ただ疲労だけが残る」です。 くたびれたことを儲けだと揶揄して、「骨折り損(=苦労した結果が報われないこと)」を強めています。 骨を折るのは損だが、くたびれただけの儲けはあったという意味で使用するのは誤りです。 例えば、「骨折り損のくたびれもうけで、それなりの利益はあった」という使い方は間違いなので注意しましょう。 「骨折り損のくたびれ儲け」も、結果的に努力が無駄になってしまったことを言い表す言葉なので「水泡に帰す」の類語です。
「画餅に帰す」は「がべいにきす」と読みます。 「画餅に帰す」の意味は「計画などが実現できなくて、せっかくの苦労が無駄になる」です。 「画餅」は絵に書いた餅のことで、実現の見込むのないものや実際の役に立たないものにたとえています。 「帰す」は「水泡に帰す」と同様に「戻る」「終わる」という意味です。 「画餅に終わる」「絵書いた餅に終わる」ともいいます。
「鰯で精進落ち」は「いわしでしょうじんおち」と読みます。 「鰯で精進落ち」の意味は「耐えてきた気持ちの報いられないこと」です。 また、つまらないことで努力が無駄になってしまうことのたとえです。 鰯のような下等な魚で、せっかくの精進明けを祝うのは残念だということに喩えた慣用句です。
「元の木阿弥」は「もとのもくあみ」と読みます。 「元の木阿弥」の意味は「いったんよい状態になったものが、再び以前の悪い状態に戻ること」です。 「元の木阿弥」は「努力が無駄になる」という意味ではありません。 ただし、せっかく苦労してやったことが何らかのきっかけで再び前の状態に戻ってしまうことを言い表す言葉なので、「水泡に帰す」の類語であるといえます。
「棒に振る」は「ぼうにふる」と読みます。 「棒に振る」の意味は「せっかくの努力や成果を無にする」です。 努力をしてせっかく得られるはずの価値のあるものを、ちょっとした失敗などでダメにしてしまうことを言い表します。 「棒に振る」の「に」は手段を表す格助詞です。 「棒を振るって払い捨てる」という意味で、後悔や無念の気持ちを込めて使用する言葉です。 ただし、「棒に振るう」は誤用です。
「灰燼と化す」は「かいじんとかす」とよみます。 「灰燼と化す」の意味は「焼けて原型をとどめないほどになる」です。 形あるものがあとかたもなくなってしまうことの喩えとして使用されます。 「灰燼と化す」は、努力や苦労が無駄になってしまうということ以外にも、建物が全焼して失くなってしまうなどものに対して使用することができます。 「水泡に帰す」よりも「灰燼と化す」のほうが意味が広いです。
「犬骨折って鷹の餌食になる」は「いぬほねおってたかのえじきになる」と読みます。 「犬骨折って鷹の餌食になる」の意味は「苦労して得た物を他人に奪われること」です。 鷹狩で犬がせっかく苦労をして追い出した獲物も鷹にとられるということから、苦労をしてようやく得たものを他に奪われてしまうことのたとえとして使用されるようになりました。 「犬骨折って鷹の餌食」「犬骨折る」ともいいます。 「水泡に帰す」には、「他人に奪われる」という意味はありませんが、努力が無駄になってしまうことをいい表す言葉として類語であるといえます。
「実を結ぶ」は「みをむすぶ」と読みます。 「実を結ぶ」の意味は「努力の末、よい結果を得る」です。 「結ぶ」には「果実や望ましい結果を生じさせる」という意味があります。 「水泡に帰す」は「努力が無駄になってしまうこと」なので、「実を結ぶ」は対義語です。
「功を奏する」は「こうをそうする」と読みます。 「功を奏する」の意味は「成功する。うまくいく」です。 目的通りにことを成し遂げることを言い表します。 「功績を君主に奏上する」という意味から転じて、「功を奏する」といいます。 「功を奏する」は「効き目が現れる」「効果が現れる」という意味で「効を奏する」と書くこともできます。 ただし、「巧を奏する」と書くのは誤りです。
「花開く」は「はなひらく」と読みます。 「花開く」の意味は「成果が現れる」です。 努力をしてきたことに対して良い結果が出ることを言い表します。
「水泡に帰す」の英語は「go down the drain」です。 直訳すると「排水口を流れる」です。
It looks like all my hard work just went down the drain.
全ての努力が水泡に帰したようだ。
「水泡に帰す(すいほうにきす)」の意味は「努力したことが無駄になる」です。 これまで積み上げてきた努力や苦労の意味が一瞬にしてなくなってしまうことを言い表します。 努力が無駄になってしまうことを、水泡の大きく膨らんでもちょっとした刺激などであっという間に消えてしまうはかなさに喩えた慣用句です。