「至らない点も多々あるかと思いますが」の意味は、「未熟な点も多いと思うが」です。年賀状の挨拶やスピーチなどで使われます。今回は「至らない点も多々あるかと思いますが」の意味や使い方、敬語表現などを解説します。
「至らない点も多々あるかと思いますが」は「いたらないてんもたたあるかとおもいますが」と読みます。 「至らない点も多々あるかと思いますが」の意味は「未熟な部分も多いと思うが」です。 「至らない」には、「思慮・分別などが行き届かない。未熟である」という意味があります。 「点」の意味は「特に注目をすべき箇所。ところ」です。 「多々」の意味は「数がきわめて多いさま。たくさん」です。 「至らない点も多々あるかと思いますが」は、自分や自分側のものを謙遜する表現です。 年賀状の挨拶文や、移動の挨拶、結婚式のスピーチなどで使います。
例文
「至らぬ」は動詞「至る」の未然形「至ら」に打ち消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」をつけた言葉です。 「至らぬ」と「至らない」は「ぬ」と「ない」でどちらも否定の意味を表す助動詞なので、意味は同じです。 移動の挨拶やスピーチなど口語で使うときは「至らない点」を使うことが多いですが、手紙など文章では「至らぬ」を使うと、より堅い文章にすることができます。
「至らない点も多々あるかと思いますが」は、「至らない点も多々あるかと存じますが」とするとより丁寧な敬語表現になります。 「存じますが」は「思う」の丁重語「存ずる」に丁寧語「ます」と接続助詞「が」をつけた敬語表現です。 丁重語とは、謙譲語Ⅱともいわれ、へりくだることで相手に敬意を示すという点で通常の謙譲語と同じですが、動作の対象ではなく聞き手・読み手に敬意を示す敬語です。 「至らない点も多々あるかと思いますが」は丁寧語「ます」のみを使用した敬語表現なので、「思う」を丁重語にした「至らない点も多々あるかと存じますが」のほうが丁寧です。
「未熟な点も多いですが」は「みじゅくなてんもおおいですが」と読みます。 「未熟」の意味は「経験・修練が不十分で、学問・技芸などが熟達していないこと」です。 「未熟」も自分や自分の身内のことについて謙遜するときに使うことができます。 「至らない点」を「未熟な点」と言い換えても意味合いは同じです。
「若輩者ですが」は「じゃくはいものですが」と読みます。 小説などで「若輩者」と書いて「みじゅくもの」や「わかもの」などと読ませる場合がありますが、正しくは「じゃくはいもの」です。 「若輩者ですが」の意味は「経験が浅く未熟だが」です。 「若輩者」には、
という意味があります。 「年齢が若い」といった意味もありますが、主に「経験が浅い」ことを指します。 「若輩者ですが」はある程度経験がある人や、ある程度の地位がある人が謙遜の意を込めて使います。
「青二才ですが」は「あおにさいですが」と読みます。 「青二才ですが」の意味は「年若く経験に乏しい男ですが」です。 「青二才」は年若く経験に乏しい男をののしっていう語です。 「至らない点も多々あるかと思いますが」と同じように、謙遜の気持ちを込めて使うことができますが、性のみが使う言葉であり、女性は使うことができないので注意しましょう。
「浅学非才の身ですが」は「せんがくひさいのみですが」と読みます。 「浅学非才の身ですが」の意味は「学問が浅く、才能にも乏しいが」です。 「浅学非才」には「学問が浅く、才能にも乏しいこと」という意味があります。 「自分の知識はまだまだである」「自分はまだまだ勉強すべきである」と意味合いを込めて、挨拶やお礼を場するときに使います。
「右も左もわかりませんが」は「みぎもひだりもわかりませんが」と読みます。 「右も左もわかりませんが」の意味は「その分野について全く知識がないが」 です。 「右も左もわからない」には「物事を理解する力がない」という意味があります。 ビジネスシーンでは、その分野や仕事をほとんど知らないという意味合いで使います。 経験のない部署に移動になったときの挨拶などで使われます。 「左も右もわかりませんが」は誤りなので、注意しましょう。
「不束者ですが」は「ふつつかものですが」と読みます。 「不束者ですが」の意味は「無作法な者、行き届かない者ですが」です。 「不束」には「能力が劣っていること。配慮や気遣いが不十分であること」という意味があります。 「不束者ですが」は自分のことに精一杯で、人に配慮できなかったり、気が使えないことを謙遜する表現です。 結婚式の挨拶などで、「不束者ですが、よろしくお願いいたします」などと使います。
「不調法者ですが」は「ぶちょうほうものですが」と読みます。 「不調法者ですが」の意味は「行き届いていなくて、経験が浅いが」です。 「不調法」には
という意味があります。 「不調法者ですが」も自分自身を謙遜して使います。