「究竟」は、「きゅうきょう」と読むと「最高の状態」、「くきょう」だと「最高の状態に達すること」、「くっきょう」だと「極めて都合が良いこと」という意味になります。今回は「究竟」の読み方別の意味と「究竟(くっきょう)」の使い方、類語を紹介します。
「究竟」は「きょうきゅう」と読むと、「最高の状態」という意味になります。 「物事を押し詰めていって、最後に達するところ」を指し、「最高の状態」という意味で使用されます。
「究竟」は「くきょう」と読むと、仏教用語で「無上。最上。事理の至極」という意味になります。 物事が、この上ない最高の状態に達することを言い表し、お経でも使用されている言葉です。
「究竟」は「くっきょう」と読むと
という意味になります。 「究竟」は「究極の境地」という極めて優れた状態をいい表します。 そこから転じて「都合がよい」という意味で使用されます。 二つ目の意味の「究竟(くっきょう)」は「屈強」と同義です。 また副詞的に使用すると「結局」「つまるところ」という意味になります。
「究竟」は、上述したように仏教用語なのでビジネスシーンでも日常会話でもあまり使われません。耳慣れない言葉かもしれませんが、主な使い方を紹介しますので参考にしてください。
「くっきょう」の一つ目の意味では、「究竟の機会」というような使い方をします。 「究竟の機会」は、「何かをするのに最も都合の良い時機」という意味です。 「究竟一」は強調語です。 「究竟一」とすることで、「最も」「極めて」というように意味を強調することができます。
「究竟の機会」の例文
「くっきょう」の2つ目の意味の使い方では「究竟の若者」などといいます。 「究竟の若者」は、「たくましい若者」というニュアンスで使用されます。 上述したように「すぐれて強い」という意味での「究竟」は「屈強」と同義で、現代では「屈強」とするのが普通です。
「究竟」の例文
「究竟」は、副詞として使用すると「つまるところ」という意味になります。 途中の経過はいろいろ考えられるが、「最終的に〜となる」「結局〜になる」と判断される様子を言い表します。 中国語でもこの意味で使われます。
「究竟」(つまるところ)の例文
「究極」は「きゅうきょく」と読みます。 「究極」の意味は「物事をつきつめて、きわまること」です。 そうして最後に到達するところを言い表す言葉です。 「窮極」とも書くこともできます。 「究極」は、最高の状態に達することを意味する仏教語の「究竟」と同義です。 また、「最後に到達するところ」から転じて「つまるところ」という意味で使用することが可能です。
「畢竟/必竟」は「ひっきょう」と読みます。 「畢竟/必竟」の意味は「つまるところ。結局」です。 さまざまな経緯があっても最後に到達するところを言いあらわします。 副詞として使う「究竟」と同義であるといえます。
「至極」は「しごく」と読みます。 「至極」の意味は「この上ないこと」です。 それを超す程度の状態はありえないということを言い表します。 副詞で使用すると「この上もなく」「きわめて」という意味になります。