「小人閑居して不善をなす(しょうじんかんきょしてふぜんをなす)」の意味は、「小人物は暇ができると悪事に走りやすい」です。暇を持て余して悪事を働いてしまう人を非難する言葉です。目上の人に使用することはできないので注意しましょう。
「小人閑居して不善をなす」の読み方は「しょうじんかんきょしてふぜんをなす」です。 「小人」を「しょうにん」と読まないように注意しましょう。 「小人」は「こども」「こびと」と読む場合もあるが、ここでは不適です。 「閑居」の漢字は「間居」とも書くこともできます。 「不善」を「不全」と書くのは誤りです。
「小人閑居して不善をなす」の意味は「人徳のない人は暇ができると悪事に走りやすい」です。 品性や知性、教養がない人は、することがないと余計なことをしてろくなことがないということを言い表しています。 「小人」は「君子(くんし)」の対義語で「人徳・教養のない人」を指します。 「小人」には「身分の低い人」という意味もありますが、今回はこの意ではありません。 「閑居」は「することがなくて、何もしないまま日を送ること」です。 「不善」は、「道徳上このましくないこと」です。 「小人閑居して不善をなす」を略した四字熟語に「小人閑居」「小人間居」があります。
「小人閑居して不善をなす」の語源は中国の古典『四書五経(ししょごきょう)』にあります。 『四書五経』は、「朱子(しゅし)」が、思想家「孔子(こうし)」の思想をより強調するために儒教の重要な経典から選んだ四書と五経の総称です。 「四書」には、「論語」「大学」「中庸(ちゅうよう)」「孟子(もうじ)」があります。 「五経」は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」です。 「小人閑居して不善をなす」は、「四書」の一つ「大学」の一節からきています。 「大学」では、人格の高め方や徳の大切さを説いています。
「大学」に出てくる「小人閒(間)居して不善をなす」が語源となって、人徳や教養のない人は暇を持て余すと悪事を働きやすいという意味のことわざとして使用されるようになりました。
「小人閑居して不善をなす」は、暇を持て余して悪事を働いてしまう人を非難する言葉です。 例えば、仕事を任せてもらえないからといって毎日暇を持て余しギャンブルにはまって借金をしているという状態の人に対して使用します。 「小人閑居して不善をなすだ」「小人閑居して不善をなすというから〜」というように引用して使用します。 ただし、「小人閑居して不善をなす」は人徳や教養のない人を非難する表現なので目上の人に対して使用することはできません。 目上の人に対して「○○さんはまさに小人閑居して不善をなすだ」などど言ってしまうのは大変失礼なので注意しましょう。
「小人閑居して不善をなす」の例文
「小人閑居して不善をなす」を「教養のない人は暇だとロクなことをしないので一生懸命働くべきだ」という意味で使うのは誤用です。 原文をみるとわかりますが、「閑」は、本来は「働かないこと」ではなく「君子のような立派な人と一緒にいないで一人でいること」を意味します。 よって、「小人閑居して不善をなす」は「教養のない人は教養のある人といるべきだ」という教えが込められています。
「暇ほど毒なものはない」は「ひまほどどくなものはない」と読みます。 「暇ほど毒なものはない」の意味は「時間をもてあますと、人間はろくなことを考えない」です。 暇があると、自分にも他人にも害となるようなことをしでかすということを言い表しています。 「暇」は「隙」と書くこともできます。 「暇ほど毒なものはない」は「小人閑居して不善をなす」と同義です。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」は「えんじゃくいずくんぞこうのここざしをしらんや」と読みます。 「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」の意味は「小人物には大人物の気持ちや考えはわからない」です。 「暇をもてあますと悪事を働く」という意味はありませんが、小人物の愚かさを言い表すことわざなので、類語であるといえます。
反対の意味をどう定義するかによって数種類の対義語が考えられる。
「小人閑居して不善をなす」は「徳や教養のない人は暇を持て余すと悪事を働きやすい」という意味なので、「徳のない人でも立派なことをする」という意味のある言葉が対義語になります。 「愚者にも一得」は「ぐしゃにもいっとく」と読みます。 「愚者にも一得」の意味は「愚かな者でも一つぐらいは妙案を思いつくことがある」です。 愚かな人でも、時には良い案を思いつくことがあるということを言い表しています。 「人には添うてみよ馬には乗ってみよ」は「ひとにはそうてみようまにはのってみよ」と読みます。 「人には添うてみよ馬には乗ってみよ」の意味は「親しく交わってみなければ、その人の本質はわからない」です。 愚かだと思っていても優れていることもあるし、反対に優れた人だと思っていた人が愚かであることもあるから、働きかけてみなければわからないということを言い表しています。 「一寸の虫にも五分の魂」は「いっすんのむしにもごぶのたましい」と読みます。 「一寸の虫にも五分の魂」の意味は「どんなに弱い者でも思慮や意地をもっている」です。 たった数センチの虫であってもそれ相当の考えや意地があるのだから、弱いものを見下したり粗末に扱ってはいけないという戒めの意味で使われることわざです。
「立派な人でも失敗することがある」という意味合いのある言葉も対義語になります。 「智者一失」は「ちしゃのいっしつ」と読みます。 「智者一失」の意味は「どんなに賢い人でも、多くの考えの中には一つぐらい間違いがある」です。 「千慮の一失」ともいいます。 「弘法にも筆の誤り」は「こうぼうにもふでのあやまり」と読みます。 「弘法にも筆の誤り」の意味は「どんな名人でも、特には失敗をすることがあるということ」です。 書道の達人でも、うっかり書き損じることがあるということにたとえています。
「小人閑居して不善をなす」の英語は「The devil finds work for idle hands to do.」です。 これは訳したものではなく、実際に英語圏に存在することわざです。 直訳で「悪魔は暇な人間に仕事をくれる」で、「悪魔がくれる仕事」とは悪事のことで、労働するわけではありません。 「人が暇だと、トラブルに巻き込まれたり犯罪に手を染めたりしてしまう」という意味で使う表現です。
「小人閑居して不善をなす(しょうじんかんきょしてふぜんをなす)」の意味は、「小人物は暇ができると悪事に走りやすい」です。 語源は中国の古典『四書五経(ししょごきょう)』にあります。 「四書五経」は、「朱子(しゅし)」が、思想家「孔子(こうし)」の思想をより強調するために儒教の重要な経典から選んだ四書と五経の総称で、「四書」の一つ「大学」の一節に「小人閑居して不善をなす」という言葉があります。