「罪を憎んで人を憎まず(つみをにくんでひとをうらまず)」の意味は「犯した罪は罪として憎むべきだが、その罪を犯した人までも憎むべきではない」です。語源は中国の「孔子」で、人に寛容であることを教えることわざです。「罪を恨(うら)んで人を恨(うら)まず」は、よくある誤用です。
「罪を憎んで人を憎まず」の読み方は「つみをにくんでひとをにくまず」です。 「罪を憎んで人を憎まず」の意味は「犯した罪は罪として憎むべきだが、その罪を犯した人までも憎むべきではない」という意味です。 例えば不倫をした人に対して、「不倫」という行為事態は許すべきではないが、不倫をするに至った事情なども考え、不倫をした本人を憎んだり、それだけでその人の人生を評価してはいけないということです。 「罪を憎んで人を憎まず」はことわざであり、法律用語ではありません。 「その罪を憎んでその人を憎まず」という場合もあります。
「罪を恨(うら)んで人を恨(うら)まず」は、よくある誤用です。 「恨む」ではなく正しくは「憎む」です。 「憎」の漢字は「悪」と書いて「罪を悪んで人を悪まず」とすることもできます。 ただし、「悪む(にくむ)」は、常用外読みなので「憎」を使用するのが一般的です。 「常用外読み」とは、「常用漢字表」に載っていないの読み方のことで、新聞など公的な文章では使用されない読み方のことをいいます。 「罪を悪んで人を悪まず」は、「君子はその罪を憎んでその人を憎まず」ともいわれます。
「罪を憎んで人を憎まず」は、座右の銘としても人気です。 「憎しみからは何も生まれない」とよく言われますよね。 憎しみは自分の心をも蝕んでしまうものです。 自分の人生をより有意義なものにするためにも他人への思いやりや配慮を忘れず、人に寛容であることは大切だという自分への戒めとして座右の銘にする人が多いです。
例文
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉を、綺麗事だと感じる人は非常に多いです。 罪が悪いことは大前提として、その罪を犯した本人が悪くないわけはないと考えるのは当然のことです。 なぜ「罪を憎んで人を憎まず」なのか、仏教やキリストの教えを見るとわかります。 簡単に紹介しますので、参考にしてください。
「罪を憎んで人を恨まず」の語源は、中国の思想家「孔子」の言葉です。 「孔子」の言行を書き記した「孔叢子(くぞうし)・罪論」に「可なる哉(かな)、古(いにしえ)の訟(しょう)を聴く者は、其の意を悪(にく)みて、其の人を悪まず」という一文があります。 これを訳すと「昔の裁判官は訴訟を取り裁くとき、罪を犯した心は憎んだが、その人は憎まなかった」となります。 これが語源となって「罪を憎んで人を恨まず」ということわざが使われるようになりました。
語源ではないが、仏教にも近い思想や考え方があります。 仏教においては、人の悪いところに目を向けてその人を正そうとするのではなく、自分自身が悪いことをしないこと、怒らないこと、憎まないことが大切だということを強調しています。 仏教のこの考えは、人を憎むことを良しとしない「孔子」の考えに近いといえます。
語源ではないが、キリスト教にも近い思想や考え方があります。 「聖書」(ヨハネ福音書8章)に、「あなたがたのうち罪のないものが、まず彼女に石を投げなさい」という一文があります。 これは、イエスが「姦淫を犯している女性を捕まえたのですが、モーセは法律で彼女を石打にするように命じています。あなたは何と言われますか?」と聞かれたときに出した解答です。 結局、彼女に石を投げる者は誰もいませんでした。 これが、「罪を犯したことのない人間などいないのだから、人は誰でも罪人なのである。よって人は赦されるべきだ」というイエスの罪と救いの考えです。
「罪を憎んで人を憎まず」の類語は存在しません。
英語圏では「罪を憎んで人を憎まず」は中国のことわざとして紹介されます。 色々な翻訳がなされているため、正しい言い方が一つあるわけではありません。
Hate the sin, love the sinner.
Hate not the person but the vice.
Condemn the crime not the person.
Detest the crime , but weep for the criminal.
Don’t hate the criminal but the vice.
「罪を憎んで人を憎まず」は「罪は罪として憎むべきだが、その罪を犯した人までも憎むべきではない」という意味です。 罪を犯すに至った事情なども考え、罪を犯した本人を憎んだり、それだけでその人の人生を評価してはいけないということや、人に寛容であることの大切さを教えることわざです。 語源は中国の「孔子」ですが、仏教やキリスト教でも同じような教えがあります。