「一寸の虫にも五分の魂(いっすんのむしにもごぶのたましい)」の意味は「どんなに弱い者でも思慮や意地をもっている」です。「一寸の虫」は、「弱い者や地位の低い者」、「五分の魂」は「命あるものの心や精神」の例えで、弱者をバカにするのを注意したり、自分の意地を示すときに使用されることわざです。
「一寸の虫にも五分の魂」の読み方は「いっすんのむしにもごぶのたましい」です。 「一」は音読みで「イチ」、「寸」は音読みで「スン」、「虫」は訓読みで「むし」、「五」は音読みで「ゴ」、「分」は音読みで「ブン」、「魂」は訓読みで「たましい」と読みます。
「一寸の虫にも五分の魂」の意味は「どんなに弱い者でも思慮や意地をもっている」です。 たった数センチの虫であってもそれ相当の考えや意地があるのだから、弱いものを見下したり粗末に扱ってはいけないという戒めの意味で使われることわざです。 「一寸」は「一尺の十分の一のこと」で、約3.03センチのことです。 「五分」は「一寸の半分」または、あるものの半分のことです。 この場合は、時間の長さのことではありません。 「一寸の虫」とは、弱い者や地位の低い者の例え。 「五分の魂」は「命あるものの心や精神」の例えです。 「一寸の虫にさえ五分の魂」ともいいます。
「一寸の虫にも五分の魂」は、弱者を侮(あなど)ることを戒(いまし)める言葉です。 例えば、部下が上司に逆らえないことをいいことに自分の意見ばかりを押し付け、部下達の意見を全く聞き入れないというような同期に対して「立場が弱い人間を馬鹿にしてはいけないよ」と注意をするときなどに使用します。 ただし、相手を「虫」にたとえているという点で使用には注意が必要です。 弱いものをかばっているつもりでも「小さな虫にだって意志や意地があるというのだから、この人にもそれなりの意地があるんだよ」と言われたら嫌な気持ちになる人もいるでしょう。 特定の人を指し示すような使い方は避けたほうが無難です。
例文
「一寸の虫にも五分の魂」は、「自分自身の誇りを捨てない」という自分の意地を示すときに使用することもできます。 例えば自分より相手が強い相手だとわかっている状態で、「自分にも誇りがあるのだから正々堂々と立ち向かうという」という強い意志を示します。
例文
「一寸の虫にも五分の魂」を前向きな意志を示して使用するのは誤りです。 例えば、ビジネスシーンで異動をすることになったなどの場面で「一寸の虫にも五分の魂という志を抱いて新天地でがんばります」という使い方はできません。
「一寸の虫にも五分の魂」由来は、鎌倉時代に「北条重時」が記した家訓「極楽寺殿御消息(ごくらくじょどのごしょう)」に書かれている、 「たとへにも一寸のむしには、五分のたましゐとて、あやしの虫けらもいのちをはをしむ事我にたかふへからす」という一文であると言われています。 この一文を略すと「小さな虫であっても、命の大きさは人間と変わらない」となります。 これが由来となって「一寸の虫にも五分の魂」ということわざができました。
近松門左衛門の浄瑠璃(三味線を伴奏楽器として太夫が詞章を語る楽曲・劇場音楽)の一つ「天智天皇」にも由来となっていると考えられる表現があります。 その表現が、「青蠅(あおばえ)は小さいけれど、毒あって腹中に入って五尺の人の命をとる」です。 これを訳すと、「小さな蝿にも人の命を奪う力があるのだから、どうせ非力だからなどと侮ってはいけない」という意味になります。 これが語源となって「一寸の虫にも五分の魂」といわれるようになったとも言われています。
江戸時代末期から明治時代初期の武士であった「勝海舟」の父である「勝小吉(かつこきち)」が、町人を切り捨てた武士にいった言葉が由来であるともいわれています。 武士だからといって、弱い立場の町人に対して身勝手な振る舞いをしていることに対して放った戒めの言葉が「一寸の虫にも五分の魂」でした。 「虫」に例えた理由は、勝小吉本人が「旗本」という非常に低い身分だったからだと考えられています。
「小糠にも根性」は「こぬかにもこんじょう」と読みます。 「小糠にも根性」の「小糠」は「精米をするときに出る糠」で「つまらないこと」のたとえです。 よって「小糠にも根性」は「どんなに小さくてつまらないものにも根性がある」という意味になります。 「蛞蝓にも角」は「なめくじにもつの」と読みます。 「蛞蝓にも角」は「なめくじにも角があるように、弱い者にもそれ相応の誇りがある」という意味です。 「痩せ腕にも骨」は「やせうでにもほね」と読みます。 「痩せ腕にも骨」は、「痩せた貧弱な腕でも骨が通っている」という意味です。 「八つ子も癇癪」は「やつごもかんしゃく」と読みます。 「八つ子も癇癪」の意味は「八歳の子供にも言い分はあり、癇癪を起こして主張をする」です。 すべて、「弱い者にもそれ相応の意地があるのだから、侮ってはいけない」という戒めの意味をもつことわざです。 その他にも「匹夫も志を奪うべからず」「山椒は小粒でもぴりりと辛い」などが類語にあります。 「匹夫も志を奪うべからず」は「ひっぷもこころざしをうばうべからず」と読みます。 「例え身分の低い者でも確固とした志があるならば、誰もそれを動かすことはできない」という意味です。 「山椒は小粒でもぴりりと辛い」は「さんしょうはこつぶでもぴりりとからい」と読みます。 意味は、「体は小さくても才能や手腕がすぐれていて侮れない」です。 山椒は小粒でも非常に辛く、侮れないことに例えたことわざです。
「一寸の虫にも五分の魂」に、四字熟語の言い換えはありません。
「独活の大木」は「うどのたいぼく」と読みます。 「独活の大木」の意味は「体ばかりが大きくて何の役にもたたない」です。 ウドの木の茎は、地上に出る前の若い目が食用となります。 木のように長くなっても長くなりすぎると柔らかすぎて用材にならないことから、体が大きくても役に立たない人をたとえて「独活の大木」といいます。 どんなに小さいものでも侮ってはいけないという意味の「一寸の虫にも五分の魂」に対し、「独活の大木」は「大きくても意味がない」という意味なので、対義語になります。
「大男総身に知恵が回りかね」の読み方は「おおおとこそうみにちえがまわりかね」です。 「大男総身に知恵が回りかね」は、体ばかりが大きくて知恵の回っていない人をあざけっていうことわざです。 体が大きくても意味のないことを言い表しているため「一寸の虫にも五分の魂」の対義語になります。 「大男総身に知恵が回りかね」の類語には
などがあります。
「一寸先は闇」は「いっすんさきはやみ」と読みます。 「一寸先は闇」の意味は「ちょっと先の事も予想できない」です。 目の前は真っ暗で何も見えないことから、人間の運命は、あすの事でさえ全く予想できないものだというたとえで使用されます。 「一瞬先は闇」は誤用です。 ただし、「一瞬先は闇だから〜」ともじって使われることがあります。
「一寸下は地獄」は「いっすんしたはじごく」と読みます。 「一寸下は地獄」の意味は「常に危険と隣合わせであること」です。 「板子一枚下は地獄」と同義です。 「板子」は和船の床に用いる板のことで、それをはがすと下は海であることから「船乗りの仕事が危険である」ということのたとえで使用されるようになりました。 「板三寸下は地獄」ともいいます。
「一寸の光陰軽んずべからず」は「いっすんのこういんかろんずべからず」と読みます。 「一寸の光陰軽んずべからず」の意味は「すこしの時間も無駄に費やしてはいけない」です。 「光」は太陽・昼のことで、「陰」は月・夜の、「光陰」は時間・年月という意味になります。 「一寸の光陰軽んずべからず」は、達成しなくてはならない目標があるのに無為に時間を過ごしてはいけないという戒めの意味で使用されることわざです。 「急がなくてはいけない」という意味で使用するのは誤りです。
「蛇は一寸にして人を飲む」は「じゃはいっすんにしてひとをのむ」と読みます。 「蛇は一寸にして人を飲む」の意味は「優れている人は、幼い頃から常人とは違ったところがある」です。 わずか一寸ほどの蛇でも人を呑むほどの気迫があるということに喩えたことわざです。 「蛇は一寸にしてその気を得る」「蛇は一寸にしてその兆しあり」ともいいます。
「人の一寸我が一尺」は「ひとのいっすんわがいっしゃく」と読みます。 「人の一寸我が一尺」の意味は「他人の欠点は小さなことでも見逃さないが、自分の欠点は大きな欠点でも気づかない」です。
「一寸の虫にも五分の魂」の英語は「Even a worm will turn.」です。 「turn」とは「向き直って対抗してくる」の意味で、「虫でさえ踏めば対抗してくる」の意味です。
「一寸の虫にも五分の魂」の意味は「どんなに弱い者でも思慮や意地をもっている」です。 たった数センチの虫であってもそれ相当の考えや意地があるのだから、弱いものを見下したり粗末に扱ってはいけないという戒めの意味で使われることわざで、弱者をバカにするのを注意したり自分の意地を示すときに使用されます。 前向きな意思を示して使うのは誤りなので注意しましょう。 由来は「極楽寺殿御消息」や「浄瑠璃」の「天智天皇」など諸説あり。 類語は「小糠にも根性」「蛞蝓にも角」「痩せ腕にも骨」「八つ子も癇癪」などがあります。