「後の祭り」は「手遅れで、取り返しがつかない」という意味のことわざです。「後の祭り」自体に「悔しい」という意味はないので注意しましょう。「後の祭り」の語源は、祭りの後には神輿が使い物にならないことからきています。類語には「後悔先に立たず」「覆水盆に返らず」などがあります。
「後の祭り」の読み方は「あとのまつり」です。 「のちのまつり」ではないので注意しましょう。
「後の祭り」の原義は「祭のすんだ翌日」です。 そこから転じて「手遅れなこと」「物事が時期を外して無益なものになってしまうこと」という意味があります。 「事物が終わった後で後悔して騒いでも、どうにもならない」というような意味合いの他にも、「~をするには遅すぎた」「~すべきタイミングを逃した」という「時すでに遅し」というニュアンスもあります。 ちなみに、「悔やむ」といった意味は含みません。 ただ、手遅れになってしまったことを悔やむ場面で使うことはできます。 たとえば「悔やんだって後の祭りだ」などと使うことがあります。
「後の祭り」の語源は「祭りのあとの御輿や山車が使い物にならないことから」エピソードが濃厚です。 時期を外れたら意味のないことが転じ、手遅れを表すようになりました。 その他にも諸説あると言われています。 ひとつは「祇園祭説」です。 祇園祭は三大祭の一つで、7月いっぱい京都で行われるお祭りです。 この祇園祭の最大の見どころの一つに、山鉾巡行というものがあります。 出車の一つであるたくさんの山鉾が町の中を祇園ばやしに合わせて巡業し盛り上げるイベントです。 これが「前祭(さきまつり)」で行われます。 それに対して「後祭(あとまつり)」は還幸祭であり、山鉾もお囃子もなくそれを見てもあまり面白くなく「前祭がおわった後祭を見に行っても意味がない」ことから「手遅れ」といった意味を持ったという説です。 そしてもう一つは「故人説」です。 「後の祭り」とは葬儀や法事など故人の霊を祀ることを指しています。 亡くなったあとに盛大な儀式をしても仕方がないことから「手遅れ」といった意味で使われる説です。
「後祭」は「あとまつり」と読みます。 先ほども説明しましたが、祇園祭には「後祭」があります。 これは還幸祭で神様が神輿に乗って神社に帰ってきます。 祇園祭では「前祭」が盛り上がります。
「後の祭り」は
などの状況で使います。 取り返しのつかない状況を説明する際に用いることが多いです。 「今更そんなことをしても後の祭りだ」などと使います。
「祭りの後」の意味は「楽しい時間が終わった時の、静けさや寂しさ」を表す慣用句です。 お祭り騒ぎが終わり、興奮から醒めたときの無気力な状態や虚しい気持ちを表します。 主な言い回しは
などとなります。 また「祭りの後のような」とも使います。 寂しさを表す慣用句ではありますが、「祭りの後だ」で寂しい気持ちを表すことはほとんどありません。 「後の祭り」は「時期を逃して手遅れなこと」を意味し、「祭りの後」は「楽しい時間の後の寂しさ」を意味するため、意味は全く異なります。
「祭りの後」の例文
「後悔先に立たず」は「こうかいさきにたたず」と読みます。 意味は「事が終わった後で悔いても、取り返しがつかない」です。 「後悔は先に立たないこと」を肝に銘じ、その先の準備や判断をしっかりしておくといった意味で座右の銘としても使われます。 また仕事や恋愛も「後悔してからは遅い、取り返しがつかない」という意味で「公開先に立たず」は人生の教訓としても使われています。
例文
「覆水盆に返らず」は、「ふくすいぼんにかえらず」と読みます。 意味は「一度してしまったことは、取り返しがつかないこと」です。 「覆水」は、こぼした水のことを指し、「盆」は「お盆」を指しています。 「覆水盆に返らず」の語源は、中国古代の「元妻に復縁を迫られた元夫が、水をこぼし、この水を盆に戻すことができたら復縁する」と返事をしたことだと言われています。 つまり、この話は、「こぼれた水を元に戻すのは不可能であるのと同じように復縁することは不可能である」ということを例えて伝えたということです。
例文
「臍を噛む」は「ほぞをかむ」と読みます。 「臍を噛む」の意味は、「ひどく後悔すること」です。 「臍」は訓読みで「へそ・ほぞ」と読み、「へそ」という意味があります。 つまり、「臍を噛む」は「ひどく後悔すること」という意味です。 どう頑張っても、自分で自分のへそを噛むことはできないのに、それでも噛もうとしてイライラしているという様子から、「どうにもならない後悔の気持ち」を「臍を噛む」と表現するようになったと言われています。 「臍を噛む」は、「悔やんでも仕方のない場面でそれでも後悔をしている」といった場面で使用します。
例文
「流水源に返らず」は「りゅうすいみなもとにかえらず」と読みます。 「流水源に返らず」の意味は「過ぎてしまったことは元に戻すことができない」です。 「流れてきた水は、流れでた元の場所に戻すことはできない」という事が転じて、「過ぎてしまったことを元に戻すことはできない」という意味で「流水源に返らず」と表現されるようになったと言われています。
例文
「元の木阿弥」は「もとのもくあみ」と読みます。 意味は「良くなったものが、元の状態に戻ること」です。 「一度良くなったのに、もとに戻る」が転じて「これまでの努力や行いなどが無駄に終わる」といった意味でも使われています。 せっかく良くなったのに、振り出しに戻ってしまった…といった状況で使われます。 主に「元の木阿弥になる」「元の木阿弥である」と使われています。
例文
「火事のあとの火の用心」は「かじのあとのひのようじん」と読みます。 意味は「時期に遅れて間に合わないことのたとえ」です。 火の用心は火事を起こさないためにするものであり、火事の後では手遅れであることから転じて使われています。
「証文の出し遅れ」は「しょうもんのだしおくれ」と読みます。 意味は「時期を逃して役に立たないことのたとえ」です。 証文を出し遅れたために、証文として役立つ機会を失うことから転じて使われています。
「死んだ子の年を数える」は「しんだこのとしをかぞえる」と読みます。 意味は「済んでしまって仕方のないことや、言ったところでどうにもならない過去を後悔することのたとえ」です。 死んでしまった子が、生きていたらいくつになったか計算することから、転じて使われています。 ただ単に「済んでしまって仕方のないこと」を表すだけでなく、「どうにもならない悔しさ、悲しさ」という気持ちを含みます。
「泥棒を捕らえて縄を綯う」は「どろぼうをとらえてなわをなう」と読みます。 意味は「準備を怠り、事が起こってから慌てて用意をすることのたとえ」です。 泥棒を捕まえてから縛るための縄を綯うことから、そういった意味があります。 「綯う」の意味は「糸や藁をより合わせて、一本の紐や縄を作る」です。 「泥棒を捕らえて縄を綯う」は略して「泥縄」とも言われます。
「菖蒲」は「あやめ、しょうぶ」と読みます。 意味は「必要とする時に間に合わず、手遅れとなることのたとえ」です。 これは、「菖蒲を5月5日の端午(たんご)の節句に用いるために6日では間に合わないということ」と「菊を9月9日の重陽(ちょうよう)の節句に用いるため10日では間に合わないということ」から転じて、そういった意味を持ちます。 「十日の菊、六日の菖蒲」や「六菖十菊(ろくしょうじっきく)」と言うこともあります。
「生き馬の目を抜く」と聞くとすごく残酷なイメージがありますよね。 しかし、ことわざ「生き馬の目を抜く」にはグロいニュアンスはなく、「利益を得るのに抜け目がなく素早いさま」を意味します。 単に「すばしっこい」という意味ではなく、「事をなしたり、利益を得たりするために機敏に行動を起こす」ことを指し、主に人に対して使います。 ただ、この意味だけを見ると「行動力と実行力があり素晴らしい人」という解釈になってしまいがちですが、違います。 「生き馬の目を抜く」は「他人を出し抜く」「利益のためなら手段を選ばない」というネガティブな意味合いで使います。 「生き馬の目を抜く街」などの表現で、「油断できない」という意味がある。 油断していると手遅れになる可能性があるというニュアンスにおいて、「後の祭り」とやや似ている。
「もはや手遅れ」の意味は「もう対処のしようがない」「今となってはどうにも出来ない」といった意味です。 「もはや」は「最早」と書き、「ある事態が変えられないところまで進んでいるさま」「今となっては」といった意味です。 「もはや手遅れ」はことわざではありません。
「備えあれば憂いなし」は、「そなえあればうれいなし」と読みます。 「備えあれば憂いなし」の意味は「日頃から備えていれば何も心配することはない」です。 例えば、地震などの災害に備えて非難用具を用意をしておく行動に対して「備えあれば憂いなし」といったような使い方をします。
「転ばぬ先の杖」は、「ころばぬさきのつえ」と読みます。 「転ばぬ先の杖」の意味は「しくじらないように、念には念を入れて用心をすることが大事」ということです。 転んでからでは間に合わないので、転ぶ前に用心して杖を突くということが転じて「転ばぬ先の杖」という言葉になりました。 簡単に言い表すと「万が一の為に準備備えよう」といったニュアンスになるということです。
「用心に怪我無し」は、「ようじんにけがなし」と読みます。 「用心に怪我無し」の意味は「用心をしていれば失敗をすることがない」です。 十分に用心していれば、怪我をすることも失敗をすることもないという意味で使用される言葉です。
「治にいて乱を忘れず」は「ちにいてらんをわすれず」と読みます。 意味は「平和の世にも戦乱の時を忘れず、万が一に備えて準備を怠らないこと」です。 これは中国の思想家であり儒教の開祖の孔子の言葉です。 世の中が良く治まり平和な時であっても、乱世になったときのことを考えて準備を怠ってはいけないといった教えです。
「準備万端」は、「じゅんびばんたん」と読みます。 「準備万端」の意味は、「準備が完璧に整っていること」です。 「万端」は「ある物事についての全ての事柄」という意味を持ちます。 何かをする為の全ての準備が整っているということです。
「後の祭り」の英語には下記の表現があります。
It's too late for regrets now.
That's water under the bridge.
What's done is done.
That ship has sailed.
There is nothing we can do about it now.
「祭り上げる」は「まつりあげる」と読みます。 意味は3つあり 1. 尊いものとして崇める 2. 周囲の人達が動き、否応なしに高い地位に就かせる 3. おだてあげて特別な処遇と思わせる です。 現代では2番目と3番目の意味で使われていることが多くなっています。
「後の祭七日賑やか」も祇園祭が語源となっています。 意味は「祭りが終わっても、後片付けや人の往来で1週間ほど町は騒然として落ち着かない」といった意味です。 「お祭りの興奮が冷めやらない」といった意味ではないので注意しましょう。
「祭りの渡った後のよう」は「まつりのおわったあとのよう」と読みます。 意味は「にぎやかな状態から急に静まり返ることのたとえ」です。
いかがだったでしょうか? 「後の祭り」について理解できたでしょうか? 意味は「手遅れなこと」です。 語源は「祭りのあとの御輿や山車が使い物にならないことから」エピソードが濃厚です。 類語には「後悔先に立たず」「覆水盆に返らず」などがあります。 対義語は「備えあれば憂いなし」「転ばぬ先の杖」などがあります。 よく使われる慣用句ですので、しっかりと覚えておきましょう。