「生き馬の目を抜く」は「利益のためなら手段を選ばない」というネガティブな意味の慣用句です。語源は例えからきていますが、ちょっとグロテクスですよね。。。今回は「生き馬の目を抜く」は詳しい意味と使い方、類語、対義語、英語表現を解説していきます。
「生き馬の目を抜く」と聞くとすごく残酷なイメージがありますよね。 しかし、ことわざ「生き馬の目を抜く」にはグロいニュアンスはなく、「利益を得るのに抜け目がなく素早いさま」を意味します。 単に「すばしっこい」という意味ではなく、「事をなしたり、利益を得たりするために機敏に行動を起こす」ことを指し、主に人に対して使います。 ただ、この意味だけを見ると「行動力と実行力があり素晴らしい人」という解釈になってしまいがちですが、違います。 「生き馬の目を抜く」は「他人を出し抜く」「利益のためなら手段を選ばない」というネガティブな意味合いで使います。 他人に対して使う際は注意しましょう。
「生き馬の目を抜く」と全く同じ意味のことわざに「生き牛の目を抉(くじ)る」があります。 「抉る」は聞き慣れない言葉だと思いますが、「くり抜く。えぐって中の物を出す」という意味で「抜く」と同義です。 したがって、「生き牛の目を抉る」は「生き馬の目を抜く」と同義になり、「生き馬の目を抉る」「生き牛の目を抜く」としても間違いではありません。
「生き馬の目を抜く」は故事や漢文が語源のことわざではなく、ただの喩え話です。 「生き馬の目を抜く」とは、「生きている馬の目を抜き取ることができるほど早い」ということの喩えです。 元々は「生き牛の目を抉る」ということわざがあり、牛よりも馬の方が素早いため、強調表現として「生き馬の目を抜く」が言われるようになりました。 また、「馬」が昔から人と深い関わりのある動物であるから馬の素早さに喩えたとも言われています。
「目を抜く」という慣用句もあります。 「目を抜く」とは「人目をごまかす」を意味をします。 例えば、「偽物のブランド品を並べてお客の目を抜く」は「偽物のブランド品を並べてお客の目をごまかす」となります。 ただし、「生き馬の目を抜く」の「目を抜く」には「ごまかす」という意味合いはないので注意してください。
「生き馬の目を抜く人」「生き馬の目を抜くような人」「生き馬の目を抜くほどの人」などの形で使います。 「生き馬の目を抜く人」で「利益を得るのに抜け目なく素早い人」というように、「生き馬の目と抜く◯◯」で、人の性格や様子を言い表すことができます。 上述しているように、良い意味ではないので目上の人などに「生き馬の目を抜くような人ですね」と言ってしまわないように注意してください。
例文
「生き馬の目を抜く」は人だけではなく街や業界に対しても使います。 例えば、「生き馬の目を抜く東京」ならば「生き馬の目を抜くような人がたくさんいる東京」で「自分が成功するために生きている人が多いので油断のならない危険な東京」という意味合いになります。 あまり日常生活では耳にしない表現だと思いますが、「世の中良い人だけではなく悪い人もいる」という注意だったり、「東京」という都会に対するイメージとして小説などでよく使用される表現です。
例文
「生き馬の目を抜くほど驚く」というように「驚く」を形容する形で使用されていることがありますが、これは誤用です。 「生き馬の目を抜く」と同じく「抜く」という動詞を含み、「驚かす」という意味を持つ慣用句には「尻毛を抜く」があります。 「尻毛を抜く」には「相手の油断に漬け込んで驚かす」という意味があり、「後ろから人の尻毛を抜き驚かす」という喩えが語源になっています。 似ているような気がしてしますが正確には「生き馬の目を抜く」と「尻毛を抜く」はニュアンスの違いがあります。 「生き馬の目を抜くほど驚く」と、この「尻毛を抜く」を混合してしまわないように注意しましょう。
「海千山千」は「うみせんやません」と読みます。 「海千山千」の意味は「せちがらい世の中の裏も表も知っていて、老獪な人。したたか者」です。 長い年月で様々な経験を積み、世間の裏も表も知り尽くしていてずる賢いさま・したたかな人を表します。 「物事をよく知っている」ではなく、「裏の事情にも詳しい」という意味合いになります。 『そのようなことまで知っているなんて、悪い知恵が働いていますね』というイメージです。 「生き馬の目を抜く」も、事をなしたり、利益を得たりするために悪知恵を働かせて行動をすることを意味しているので類語になります。
例文
「老獪」の意味は「長い間世俗の経験を積んで悪賢いこと。世故にたけて悪賢いこと」です。 「老」は「長い経験を積んでいる」、「獪」は「悪賢い・ずるい」を意味しています。 十分な経験を積み、様々な方法・手段を習熟していて、なおかつ悪賢いということを表すときに「老獪」を使います。「老獪」は年配者に対して、相手を蔑む場合に使うことが多いという点で、「生きた馬の目を抜く」とはニュアンスや使い方の違いがあります。 しかし、「生き馬の目を抜く」を利益を得るのにずる賢く抜け目ない行動をするというニュアンスで捉えると類語になります。
例文
「油断ならない」という意味の「生き馬の目を抜く」の類語には「油断大敵」があります。 「油断大敵」は、「少しでも気を抜くと思わぬ失敗を招く」という意味の四字熟語です。 物事が上手く言っていたり、上手いことを言う人の前で油断をしていたり気を抜くと思わぬ落とし穴に落ちることになるということを「油断大敵」と言います。 生き馬の目を抜くような人の前でも油断をしてしまうと、自分が利益を得るために陥れようと してくるかもしれません。 つまり、「生き馬の目を抜くような人の前では油断をしてはいけない」ということです。 したがって、「生き馬の目を抜く」を「油断ならない」と捉えると「油断大敵」は類語になります。
例文
「生き馬の目を抜く」の反対語は、明確にこれと言えるものはありません。 強いていうのであれば、「生き馬の目を抜く」が「利益を得るために抜け目なく素早い」という意味なので、
といった、「誠実で正直なこと」「正直すぎて臨機応変の行動をとれないこと」を意味する言葉が反対語にあたると言えるでしょう。
例文
「greedy」は悪い意味の「貪欲さ」で「欲深い」という意味です。 良い意味の「貪欲さ」を示す言葉「hungry」です。 「greedy」はお金や性、食べ物などあらゆる物事への欲望を表すことができます。
He is very greedy for power.
彼は権力のためなら生き馬の目を抜くような男だ。
「何がなんでも勝つ」を意味する「win at any cost」を使っても、「生き馬の目を抜く」を表現することが可能です。 「ビジネスなどで勝つためなら手段を選ばない」という意味合いです。
He always tries to win at any cost.
彼は生き馬の目を抜くような男だ。
「生き馬の目を抜くような街」は先程紹介した「a greedy city」としてもよいですが a city where sharp practices are common などと表現することもできます。 「sharp practice」は直訳すると「鋭い実践」ですが、正しい意味は「違法ではないがズルいやり方」という意味です。
In this town where sharp practices are common, you will either ear or be eaten.
生き馬の目を抜くこの街では、食うか食われるかだ。
「生き馬の目を抜く」を和英辞典で調べると「catch a weasel asleep」がよく出てきます。 「catch a weasel asleep」は「You can't catch a weasel asleep」の形で使い、「あいつは騙せない」「奴を出し抜くのは無理だ」という意味になります。 「catch a weasel asleep」で「(悪い意味で)驚かす、出し抜く、騙す」という意味があるので、「生き馬の目を抜く」と意味が近いですが、使い方が違うので注意しましょう。 「catch a weasel asleep」は直訳すると「眠りながらイタチを捕まえる」という意味になります。
You are trying to steal money from the CEO room? You can't catch a weasel asleep, especially that guy!
社長室から金盗もうとしているの?あいつを騙すのは無理だぜ、特にあの男はな!
「馬が合う」は、「性格や気が合うこと」という意味です。 同じ趣味をもっていたり、好みが似ている、性格が合うといったときに「馬が合うね」などと言います。 例えば、話をあわせようとしているわけではないのになぜが共通の話題でやたらと盛り上がったり、考えが一緒になったりするような関係性を「馬が合う」と表現することができます。
例文
「尻馬に乗る」は、「軽率に人の言動に同調して軽はずみな行動をとってしまうこと」です。 「尻馬」とは、他人が乗っている馬の後ろのことです。 つまり、「尻馬に乗る」は他人が乗っている馬の後ろに乗ることを意味しています。 他人が乗っている馬に自分は乗っているだけで、相手に行き先など全てを任せているということから喩えて「自分は他人の言動に同調してついていくだけ」というニュアンスで使用されるようになりました。 軽率に他人に便乗していると、良くないことが起きるという意味で使用されることが多いです。 また、会議などで周りと同じような当たり障りのない意見しか言わないような人を「尻馬に乗っている」と言います。
例文
「人間万事塞翁が馬」は、「にんげんばんじさいおうがうま」と読みます。 「人間万事塞翁が馬」の意味は「人生の禍福は最後まで予測できない」という意味です。 「過去には大変なこともありましたが、今は幸せなので、人生何があるかわかりませんよね」というポジティブな意味合いで「人間万事塞翁が馬」を使うことが例にあげられます。 その反対で、「良いことがあっても、悪いことが起きる可能性もある」というネガティブな意味合いで使用することもあります。
例文
「贈られた馬の口の中を覗くな」は、「受け取った贈り物の価値を詮索したり、あら捜しをしてはいけない」という意味で使用されることわざです。 馬は年齢を重ねるごとに歯が伸びて、さらに咀嚼を繰り返すうちに歯の先が削れて断面が見えるようになっています。 なので、馬の口を確認することで馬の年齢を確認することができるようになっています。 したがって、馬をもらった時に馬の口を確認するということは贈り物の価値を確認しているのと同じことなのです。 現代では馬を贈り物として贈ることは中々ないですが、平安時代や室町時代など馬が贈り物として用意されていたことはよくありました。 そういった時代の馬の口の中を確認する行為から「贈り物の価値を確認することは贈り主に失礼だ」ということわざがヨーロッパで生まれ、それが語源となって日本でも使用されるようになりました。
例文
「馬子にも衣装」の意味は「誰でも外面を飾れば立派に見えること」です。 「馬子」は「馬をひいて人や荷物を運ぶ人。うまおい。うまかた」という昔の職業のことです。 「衣装」は「衣と裳。きもの。衣服。俳優や踊子などが演技の際に用いる衣服」を意味します。 「馬子」の職に就くのは身分の低い人達で、普段の身なりは働きやすく汚れきっている服装でした。 そんな身分が低い人たちでも、身なりをしっかりすれば立派に見えることから「馬子にも衣装」と言葉ができました。 「馬子にも衣装」は、「みすぼらしい人でも身なりを整えればそれなりに見える」「着ているものが良いからこそ立派に見える」という意味なので、他人に対しての褒め言葉として使うのは失礼ですし、不適切になりますので注意しください。 身内を褒められたときに、謙遜の意味で「孫にも衣装ですよね」と返すことは可能です。
例文
「馬の耳に念仏」は、「馬に念仏を聞かせてもそのありがたみが分からないように、いくら説き聞かせても何の効果もないたとえ」を意味します。 「念仏のありがたみが分からないなんて愚かな奴である」という意味合いが含まれます。 「馬の耳に念仏」は、元々「馬耳東風」という言葉でした。 「馬耳東風」は「馬の耳に念仏」とも言われています。 「馬耳東風」は、春風が吹くと寒い冬が去って暖かくなるだろうと人は春の訪れを思い喜びますが、馬は耳を撫でる春風に何の感動も示さないということから、他人の意見や批評を聞き入れずに心に留めない喩えとして使用されています。 そこから徐々に「馬の耳に風」と言われるようになっていき、いつしか「風」が「念仏」という言葉に変わりました。
例文
いかがでしたか? 「生き馬の目を抜く」ということわざについて理解していただけたでしょうか。 ✓「生き馬の目を抜く」の意味は「利益を得るのに抜け目がなく素早いさま」 ✓「生き牛の目を抉(くじ)る」も同義になる ✓「生き馬の目を抜くような人」の形で使う ✓「生き馬の目を抜く東京」は「油断のならない街」という意味 ✓「生き馬の目を抜くほど驚く」は誤用で正しくは「尻毛を抜く」など