「諦観」「諦念」「達観」という言葉をご存知でしょうか?3つとも日常会話ではあまり使わない表現ですよね。とても似ていますが、実はそれぞれ意味が異なります。そこで本記事では「諦観」「諦念」「達観」の意味と使い方の違いについて解説していきます!
「諦観」・・・「物事の本質をしっかりと見極めたうえで、諦めること」 「諦念」・・・「物事の本質を見極めて、諦めの境地に至った心の状態」 「達観」・・・「細かいことや目の前のことにとらわれずに、物事の全体を見ること」
「諦観」は「ていかん」と読みます。「たいかん」と読むこともできますが、一般的には「ていかん」と読みます。 「諦観」の意味は、
です。 「諦観」は仏教用語で、「真理を明らかにする」という意味でした。元々「諦」という言葉は「断念する」という意味ではなく、「あきらかにする」という意味で使われていました。 「諦める」と言う言葉は本来プラスな意味を持っていましたが、段々と「望みを捨てる」とマイナスな意味合いで使われるようになったのです。 「物事の本質をしっかりと見極めた上で、諦めること」を表す場合に「諦観」を使います。 諦めなくてはならない理由や原因をしっかりと認めていることを意味しています。 主に、「諦観する」という形で使います。丁寧でやや堅い表現のため、話し言葉というよりは、書き言葉として用いることが多いです。 他にも、
というような使い方をします。
例文
「諦念」は「ていねん」と読みます。「たいねん」と読むこともできます。 「諦念」の意味は、
です。 「諦念」も「諦観」と同様、元々仏教用語として使われていました。上記で説明した通り、「諦」は本来前向きな意味合いで使われていた表現です。 それがだんだんとネガティブな「断念する」という意味で使われるようになったのです。 「諦念」は「迷いを取り除いて、あきらめの境地に達する状態」を意味します。心のうちを表しています。
というような使い方をします。 「諦念」は「諦念に達する」「諦念に至る」などと動詞を補います。「諦念する」は誤った表現ですが、一般的に使われることが増えたため定着しました。
例文
「達観」は「たっかん」と読みます。 「達観」の意味は、
です。 「達観」も元々仏教用語で、「物事を理解して、ありのままを認めること」を指します。 細かいことにとらわれずに物事の本質を見通すことを意味します。また、本質を見通すという意味から、どんな出来事が起きても冷静に物事を判断して行動することができる人という意味でも使われるようになりました。 例えば、「国の情勢を達観する」ならば、「情勢に大きな見通しを持っていること」を意味します。他にも、「人生を達観する」ならば「無の境地で物事にのぞむ」という意味になります。
というような使い方をします。
例文